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皆殺しにせよ!選別は神がなさるだろう。 [仏蘭西]

カルカッソンにおけるカタリ派の追放(1209年)

この旅での目的は、カタリ派の城と、世界遺産に登録されているサン・ジャック・ド・コンポステル街道に点在する修道院や村を訪れることでした。

カタリ派とは11世紀以降に南仏・北伊を発祥とする、物質や肉体は悪神によって生み出され、精神は善神が生み出すというマニ教的善悪二元説を教義とし、肉食、性交、物質の所有などは全て悪とみなしていた新興のキリスト教徒の一派でした。
彼らは禁欲、清貧の生活を実行し、時には自らに断食や鞭打ちなどの厳しい修行を課し、当時、権力と金にまみれて腐敗していたローマ・カトリック教会を公然と糾弾しました。
民衆はこれらカタリ派の指導部(パルフェ=完全者)のような世俗と断絶した修行は履行しなかったものの、彼らに尊敬の念を抱き、カタリ派を支持する者は民衆や貴族階級に至るまで次第に増えて行きました。
そして来るべき救済には司祭も法王も不要であるという彼らのグノーシス的な発想から、ローマ教皇の権威を認めることを拒絶し、カトリックの支配階層制自体をも根本から否定しました。

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このラングドック地方は、かつて Langue d'Oc=オック語 を話す独立した文化圏であり、民衆は教養高く、階級や民族差別もない自由な雰囲気、ヨーロッパ随一の商業の繁栄を誇る土地であったそうです。
それをカトリック教会が良く思うはずはありません・・・。
こうして、カタリ派に狙いを定めたアルビジョワ十字軍が「異端征伐」を大儀として送り込まれることとなったのでした。
十字軍はさらに彼らを擁護する貴族の抹殺をも命じられ、奪った領土や財産は全て自分達の物とすることを保証されたのです。

カルカッソンヌの領主トランカヴェル伯爵もカタリ派を擁護したために、アルビジョワ十字軍の包囲に対し15日間の篭城の末に城を追われ、住民は放逐されました。
この地では夥しい血は流れずに済んだのですが、近郊の町ベジェではカトリック教会によるカタリ派の引渡しを拒んだために、2万人の老若男女が無差別に殺戮されました。
「異端とカトリックを見分けるにはどうしたらいいのでしょう?」という兵士の質問に、十字軍総督は答えました。
「皆殺しにしろ。選別は神があの世でなさるだろう」と。

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カルカッソンヌの観光局にて「カタリ派の里を廻りたい」と申し出ると、よくできたカラー写真付の観光地図をくれ、丁寧で熱が入った説明を受けられるので、とてもお勧め。
さて、まずはペイルペルトゥーズ城という断崖絶壁に建つ廃墟の城を目指します。
カルカッソンヌから直線距離にして50km南下した所に位置するのですが、何しろ険しい山道のためヘアピンカーブの連続、360℃廻って元の位置に戻っているのでは疑うほどの曲がりくねった道程は想像以上に時間を要し、途中昼食を摂ったりなどしているうちに午後になってしまいました。

辿りついた剥き出しの高度800mの岸壁の峰に、擬態のように岩と同化しようとしているもの、しかし明らかに人の手によって造られたのがわかる巨大な建造物の禍々しい佇まいが。
ペイルペルトゥーズ城です。
さて、この城が文書に記された最初の記録は1070年。
しかし紀元前よりローマ帝国が支配していたという説があり、実際に建立されたのは一体どれほどの昔なのでしょうか。
明らかに軍事目的で建てられたものであることは、眺望と防衛を何よりも最優先にしていることからもわかりますが、私は先史時代にこれほどまでに徹底した城塞を、このような辺境に造る意図が理解できなかったのでした。
ネット上にもまともな記述は殆ど見当たらず、城から持ち帰ったパンフレットを読み込んでみてもそれらしい理由は見つけられませんでした。
そもそもここはカタリ派がローマ教皇の殲滅作戦に対し最期まで抵抗して十字軍と闘った城のひとつとして有名だったために、当初はカタリ派篭城のために建てられたのだと思い込んでいましたが、城そのものは遥か昔から存在していたのです。

現代では果てしなく牧歌的に見えるこの地方も、過去には如何に血生臭い歴史を切り抜けて来たのかと思いを馳せてしまいます。
十字軍の横行のみならず、伝統的に付近の実力者や流しのならず者が常に権力を奪い乱暴狼藉を働こうと虎視眈々と攻撃の隙を狙っているお土地柄。
領主としては用心に用心を重ねずには夜も眠れないことでしょう。
まるでサバンナに生きる野生動物の群です。
現状の田舎町の佇まいからは信じがたいのですが、そうでなくてはフランスの田舎に見られる多くの完全防御の鷲巣村や、これらの城が執拗なまでの防衛策を講じた理由が説明できません。
昔は住みにくい世の中だったのでしょうね。
今やキレイに舗装された山道を車で訪れるのでさえもこれほど難儀なのに、こんな山奥の切り立った辺境へ建材を運び、危険な足場に強大な城塞を築いた執念はどれほどのものだったのでしょう。

車を駐車場に停め、城が聳え立つ巨大な岩山の麓でチケットを買い、ここからは30分間、ひたすら徒歩で山登りです。
もの凄く、危ないです。
磨り減った石積階段の足元は滑りやすく、遮る物がないために凄まじい暴風が吹きさらし、手すりは崩れ落ちて足下の垂直な崖から身を隔てるのはロープ1本だけという箇所も多々。
高所恐怖症の方にはお勧めしません。
しかし、登った先には信じられないほどの眺望が開け、恐怖の山登りは確実に報われます。
果てしない高度からもこもこした緑に覆われたなだらかな山々、遥かな遠方まで至る土地の起伏を視野を遮る物なく眺めていると、どこかで似たような眩暈を覚えたことに思い至りました。
足がすくむ程の巨大な珊瑚礁、足下に開けるダイナミックな地形の変化、マクロの営みが織りなすとてつもない別世界・・・。
海中世界です。
水中では物体は実物の1.3倍に見えるということなので、実際よりも1.3倍迫力増しなのでしょうが、この山々は更にその何倍もスケールが大きいのです。
しかし、考えるほどにこのような場所で一体どんな生活が可能だったというのか・・・、謎は深まるばかり。

さて、次はペイルペルトゥーズの頂上からも姿を望める、お隣の山の頂に座すケリビュス城へ。
調べた限りでは標高はペイルペルトゥーズよりも低いようなのですが、展望としてはこちらが断然高所である印象を受けます。
壮大な山々の峰から差す陽光が大地に落とす雲の影。
もう神々しいまでです。
こちらも文書にて初めて存在が記されたのが1020年、標高728mに残存するカタリ派の文字通りの最期の砦と言われています。
ここまで執拗に追い掛けて来て確実に掃討しようというのだから、十字軍の執念にも恐れ入るものがあります。
50年間で100万人に達する犠牲者を出したというアルビジョワ十字軍の進軍は、14世紀初頭に最後の完全者を処刑した後、その幕を下ろしました。
もちろん各地へ散り地下へ潜入した信徒達はその後片っ端から集められ、拷問を受け、火にかけられることになるのです。

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カルカッソンヌの旧市街で一軒の小さな博物館に入りました。
その名も、「拷問と虐待の道具博物館」。
ここでは実際に使用されたフランス革命期までのヨーロッパ全域から集められた、拷問用具を展示してあります。
これらは魔女狩りや、カタリ派等の異端審問の他にも、通常の裁判、理不尽な断罪の懲罰などに実際に使用された物だそうです。

ほんの200年ほど前まで拷問はごく普通の制裁行為であり、人々が自然に抱く関心事、または日常的な趣味として広く受け入れられていたのです。
ローマ帝国では罪人の告白は拷問によって為されたもののみが有効とされ、中世ヨーロッパではある程度経済力のある者は自宅にマイ拷問室を設け、道端で無辜の貧乏人を誘拐して来ては新しい拷問用具を試し、効果を研究して楽しむのが粋な遊びだったとか。

有名な鉄の処女、ギロチン、悪魔と関係を持った女や同性愛者、不貞者を懲らしめる性器拡張破壊器など、冗談と思うより気持ちの整理が付けられない展示物が、幾人の血を吸って来たのか赤く錆びたまま並べられていました。


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ミネコ

歴史の勉強になりますな。
ドイツのフライブルグにも拷問博物館あったよ。
あまりにも美しい大聖堂の前にそれはあったので、大聖堂が民衆の抑圧と恐怖による支配の象徴のように見えたものだった。実際、搾取の象徴だとは思うけど。
ヨーロッパの町って、全体的に血の匂いがするよね。
by ミネコ (2006-10-13 12:20) 

meg

この辺りの観光客の多い中世町にはかなりの割合で拷問博物館があるようだよ。
カルカッソンヌにももうひとつあった。
あちこちに一体どれだけ展示物があるんだよ・・・。
大して珍しいモノでもなかったんだろうねぇ。

拷問は搾取というよりも、ごく日常的な社会機能の一部だねぇ。
民衆も「今日広場で処刑があるってよ!」「拷問見に行くべ!!」とエンタテイメント感覚で楽しんでいたようだし。
by meg (2006-10-14 01:23) 

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